借り受けた命を 787

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雑感



借り受けた命を


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参照引用


目に見えないけれど大切なもの     渡辺和子



人生のしめくくり方
「人は、生きたように死ぬ」とよくいわれる。
その倍率がどのくらい高いのかは知らない。


人生というものは、予想できないしめくくりを迎えることが多い。
業を行ったから必ずしも、
外見上の大往生を遂げるとは決まっていないし、
悪いことを沢山した後にも、安らかな死があることを、私たちは経験で知っている。
たしかなことは、いずれの場合にも、限りない神の愛があるということだ。


キリスト自身の場合も、善いことしかしなかったのに、
極刑に処せられ、
「他人は救ったのに、自分は救えない」(マルコ15・31)
と叫ぶ群衆の罵言雑言のうち、
弟子たちにも裏切られた末、
十字架の上で、見るも無惨な死を遂げている。


イザヤは、「彼の姿は損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の面影はない……
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ」(イザヤ52・14、53・3)たと、


人間の尊厳からは程遠い救い主の死を預言し、
その預言はキリストにおいて成就したのであった。

尊厳を補って余りある神の愛が働いたのだ。


私の父も、外見上、尊厳ある死とはいい難い死にざまであった。
43歳の軽機関銃の弾丸を受けた体は蜂の巣のようになり、
肉片は天上にまで飛び散っていた。

しかもクーデターが早朝であったために、軍服姿ではない、寝巻姿で殺さ
れたのである。


その父の死の一部始終を、同じ部屋にいて唯一人見守り、
見届けた娘の私は、
父が逃げ隠れすることなく、
30余名の敵”を相手に死んだことを。
尊厳ある死”と誇りに思っている。

ただ、父が、果たしてあの日、あの時刻に、
自宅で、幼い愛娘の目の前で、あのようにして自分の人生をしめくくることになろうと考えていただろうかについては、わからない。


死は、思いがけない姿で思いがけない時にくる。

母もまた、思いがけないしめくくり方で八七歳の生涯を終えた、
「他人さまの世話になりたくない」が口癖で、
そのように事実生きた人だったが、
死ぬ前の一両年は赤子のようになり、
自分が一番嫌った他人さまのお世話になって亡くなった。


訪ねてきた自分の娘もわからず、
徘徊しないようにロックされた部屋の中を、
うつろにさまよう母の姿は、
外見上は人間の尊厳を失った姿でしかなかった。

死にざまは思うようにならない。


このようなさまざまの死を思う時、尊厳ある死を迎えるための準備も
大切だけれども、
そこには、自分がどう生きるかということ以上の、
「思し召し」と呼ぶものに委せる心が大切なように思えてくる。





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