裸で生まれた 834

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雑感



裸で生まれた
裸で命を授かった




参照引用     目には見えないけれども大切なもの  渡辺和子


孤独


卒業生の夫が自殺したことがありました。
「夫が死んだこと自体も悲しい
かし、妻である私になぜ心の中を打ち開けてくれなかったか、
ということが、もっと悲しいのです」と
その卒業生が話してくれました。



旧約聖書ヨブ記の中でヨブは、
自分の家族、財産を失った後、こういっています。
 「私は裸で母の胎を出た
 裸ででそこに帰ろう」(ヨブ記1-21)



「裸で」でというのは、もちろん何も身に着けず、何も持たずにという意味でしょう。
しかし私はこの述懐の中に、「人間の孤独」を感じてしまいます。
「たったひとりで」という人間の本来的孤独といってもいいかも知れません。



そして、その淋しさを感じ、深めてゆくことは、
人間にとって大切なことだと私は思っています。



幼い時、母は
「他人さまを当てにしてはいけない。結局、皆自分が可愛いのだから」
と、ことあるごとに私たち子どもにいいきかせて、



生きていく上での厳しさを数えてくれました。
このことが、
その後の人生で味わうことになった孤独を受け入れ、
孤独に耐えるために、大そう有り雌かったと思っています。



かくて私は、他人に100パーセント理解してもらえるなど夢にも思わず、他人を100パーセント理解し、知り尽くせると思わなくなりました。



これは淋しいことです。
特に愛する相手を知り尽くしたいと思うのは人の常ですから。
しかし同時に、
人間は本質的に一人ひとり裸で生まれた別人格であるということを忘れず、
その孤独に耐える時、人間は成長します。



私たちは、愛する者を持っていない淋しさも味わいますが、
反対に、愛する者を持ってしまったがゆえに味わわねばならない淋しさ、孤独もあるのです。



それに耐えるのも愛の一つの姿だと知りましょう。
 『淋しさはは愛するためにある』。
私の好きな言葉の一つです。



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