自分が理想を持たないで 779

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雑感


自分が理想を持たないで



参照引用

目に見えないけれど大切なもの    渡辺和子

教師と教員

「私が先生になったとき」よいう詩がある。

一説には宮沢賢治の作だといわれ、
他方それを否定する説もあって、
真意のほどは定かでないが、
教員でない教師のあるべき姿を語っている。


私が先生になったとき
自分が真実から目をそむけて
子どもたちに 本当のことが語れるのか


私が先生になったとき
自分が未来から目をそむけて
子どもたちに 明日のことが語れるのか


私が先生になったとき
自分が理想を持たないで
子どもたちに、いったいどんな夢が語れるのか


私が先生になったとき
自分に誇りを持たないで
子どもたちに 胸を張れと言えるのか


私が先生になったとき
自分がスクラムの外にいて
子どもたちに 仲良くしろと言えるのか


私が先生になっんとき
ひとり手を汚さず自分の腕を組んで
子どもたちに  ガンバレ、ガンバレと言えるのか


私が先生になったとき
自分の闘いから目をそむけて
子どもたちに 勇気を出せと言えるのか




この詩がいおうとしていることは、
教師が自ら行っていないこと、
または行おうと努力もしていないことを、
子どもたちに求めることができようかということであり、


反対からいえば、子どもの教育に当たる者は、
まず、自分自らの生き方を正してかかれという厳しさである。


人は誰も、自分が持っていないものを、
他人に与えることはできない。
師の影を踏む踏まないにかかわらず、
教師は子どもたちの三尺先きを常に歩んでいなければならないのだ。


それがプロとしての教師に求められる当然のことであって、
自分の生活のためにただ漫然と勤めるサラリーマン教員ではなく、
教科においても、

人格においても、
自分の教育に対して責任を感じ、
教育への情熱を持ち、
らも生活の基本的ルール、
習慣を身につける闘いを辞さない教師でなければ、
育はできてゆかない。


 「雀の学校」の歌にあるように、
「ムチを振るう」必要はさらさらないが、
「めだかの学校」の歌のような
「誰が生徒か先生か」
わからないようなところに、教育は成立しない。


育児と育自

親もまた、姿勢を正して生きてほしい。
なぜなら、育児は、親の育自のないところには正常に機能しないからである。

今や、各種の便利な物が出回って、
母親の自由時間を多くしている。

女性の自立が叫ばれ、
家を外にして働く母親も増えてきた。
そのこと自体は決して悪いことではないが、
お金を子どもへの愛情に優先してほしくない。

お金で愛情が買えると思わないでほしい。
時間を自分の成長のために使ってほしい。



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