したがって「たまもの」「授かりもの」と見る心は薄れ、778

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雑感



なぜ、人を殺しては



参照引用



目に見えないけれど大切なもの    渡辺和子



生命科学の発達


 「なぜ、人を殺してはいけないのですか」という問いには、暗に、私たちは平気で牛や豚、鶏を殺し、蝶や蟻も殺しているではないか。


野菜も食べているのに、なぜ「人だけは」殺していけないのか、という問いかけが含まれていると前にも書いた。


そうせずには人は生きていけないからなのだが、
その必要性は必ずしも、だから人を殺してはいけないという答えにはならないだろう。


必要ならば殺してもいいということになりかねない。


人間は能力が高いから尊いのだという答えも考えられるが、
それでは能力の低い人間はどうなのかと問われると答えに窮するであろう。


最近の分子生物学の発達は、人間の尊厳性に大きな動揺をもたらした。


それは、生命の基本的メカニズムを明らかにし、
分子レベルの構造において、
人間も他の生物も、その基本において同じ二重らせん構造と、
旋回方向を持つDNAであることを証明した。


このことは、人間だけが「別格」であることを、生物学上でくつがえしたことになる。


生命科学の発達は、体外受精試験管ベビーの出生を可能にし、医療の進歩は臓器移植、人工延命もある程度可能にしている。


遺伝子の組み換え、クローン生殖等、私たちは今や、かって神の領域として不可侵とされた分野に人間の操作を可能にしたのである。


このような人間の業績は、
一方でその尊厳を証明するものでもあるが、
他方人間の生命への畏敬の念を著しく侵害するものでもある。


生命を神による創造、
したがって「たまもの」「授かりもの」と見る心は薄れ、
子どもは、夫婦が欲しいだけ、


欲しい時に「つくる」ことが可能となったのである。


研究室でもつくられるものとなった今、
「つくる権利」を持つものは、
「こわす自由」も持っていると考えるのも当然かも知れない。


家を建てるか、車を買い替えるか、それとも子どもをつくろうかと思案し、計算した末につくった”子どもに対しては、
いきおい「こうあってほしい」という親の期待も大きく、


それが子どもたちへの過度のプレッシャーとなって、
のしかかっているのも事実である。


そのような期待が、個々の、かけがえのない、他によって代わることのできない生命が、自分らしく育ってゆくことを妨げている。



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