「恥も外聞もなく」、777

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雑感


行動の基



参照引用



目に見えないけれど大切なもの    渡辺和子
 



日本古来の宗教が、「なぜ人を殺してはいけないか」に対する明確な答えを持っていなかったとしても、


日本には、それに取って代わるブレーキとしての世間体”というものがあった。

つまり、人を殺すようなことをした場合、それは一家親族の恥であり、世間の手前、してはならないことという暗黙の丁解があったのである。


ルースーペネディクトが一九四六年に出した『菊と刀』という、日本社会を分析した本の中で、ベネディクトは日本文化を欧米の「罪の文化」と対比して「恥の文化」と呼んでいる。


絶対神を持たない日本人には、罪の意識は稀薄で、日本人の行動はとかく、「ひとまえを考え」「ひとぎきの悪いことを避け」「ひとさまに
どう思われるか」、
つまり、恥の観念に左右されているというのである。


同様のことを一九七二年に司馬遼太郎ドナルド・キーンが『日本人と日本文化』と題した対談集の中で、
「日本人のモラルー恥ということ」に述べている。


日本人は「カッコいい、カッコ悪い」という、他人の目にいかに自分が映るかということを大そう気にする。


そして他人の目に醜いこと、みっともない(見たくもない)ことはしたくないという一種の美意識が働いて、

その行動が律
せられ、先進国の中でも比較的に犯罪が少ないというのだ。


しかしながら、この対談から三十年近く経った今、日本人の心からは徐々にこ
のような「恥」の感覚が失われ、


「世間体」も、血縁、地縁に取ってって代わった社縁
で結ばれる日本社会の中で、軽んじられるようになっている。


かくて「恥も外聞もなく」、自分のしたいように行動する人たちが増え、
しか
もその人たちに、罪の意識が稀薄であるとしたら、
前述の山本がいうように、
日本
社会は無規範の社会となるであろうし、
現に、すでにその観を呈している。


ドストエフスキーは、『罪と罰』の主人公、ラスコーリニコフに、「神がいなけ
れば、すべてが許される」といわせているが、
神も、世間体も、内的規範も力を
持たない社会での宗教教育は極めて難しくなっている。


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