なぜ何も悪いことをしていない人が悲惨な目に 616

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参照引用


心を癒やす言葉の花束  アルフォンス・デーケン



わたしの魂は息を奪われることを願い
骨にとどまるよりも死を選ぶ。
もうたくさんだ、いつまでも生きていたくない。
旧約聖書ヨブ記』七章十五~十六節


苦しみは、人間にとって、永遠なる疑問です。
なぜ人は苦しまなければならないのでしょうか?
なぜ何も悪いことをしていない人が悲惨な目に遭うのでしょう?


古今東西の宗教家、思想家、哲学者、文学者など、多くの賢人たちは、苦しみの意義について繰り返し考察してきました。
その最たるものは旧約聖書の『ヨブ記』でしょう。
人生に苦難が訪れたとき、キリスト教圈では、『ヨブ記』を読む人が多いようです。
古今の西欧文学の中でも、『ヨブ記』は、人間の苦しみの意義を深くとらえた傑作です。


主人公のヨブは、大変な富豪で、敬虔な信仰を持つ非の打ちどころのない善人です。
ところが、神の許しを得たサタンが、彼の信仰を試そうと、さまざまな苦難に遭遇させます。

突然の敵の襲撃や天からの神の火によって全財産を失い、さらには大風で家をなぎ倒され、十人の子すべてがその下敷きとなり亡くなりました。

それでもヨブは、地にひれ伏し、神に拝してこう言います。

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」

それを聞いたサタンは、今度はヨブの肉体をいたぶり始めます。
全身を悪性の腫塲に蝕まれ、痛みとかゆみで夜も眠れなくなってしまったヨブは、陶器の破片で体のあちこちを掻きむしりながらも、決して神を恨みません。


ヨブの災難を問きつけて訪ねて来た三人の友人は、変わり果てたヨブの姿に絶句したまま七昼夜共にします。

ヨブがやっと口を開いたとき、口をついて出たのは、自分が生まれ
たことへの呪いの言葉でした。

友人たちは、慰めのつもりで「天罰ではないか」
「無意識のうちに悪いことをしていたのではないか」
と説き始めます。

しかしヨブは、こんな苦しみを受けるような過ちは犯していないはずだ、と頑として同意しません。

ヨブと三人の友人たちの議論は尽きることなく、激昂したヨブは冒頭に挙げた壮絶な言葉

(わたしの魂は息を奪われることを願い
骨にとどまるよりも死を選ぶ。
もうたくさんだ、いつまでも生きていたくない。
旧約聖書ヨブ記』七章十五~十六節)

を吐き、神と共に裁きの場に出たいとさえ言うのです。
それでも黙したままの神に、ヨブは激しい怒りや恨みにかられ、神の不当な仕打ちを大いに嘆きます。

絶望の渦中から絞り出すヨブの言葉は、極限の苦しみにさらされた人間の心からの叫びです。

物語の終盤、ようやく神は嵐の中からヨブに答えて、彼の愚かさを諭されます。

神の臨在を体験したヨブは、

「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この口であなたを仰ぎ見ます」

と自らの不明に気づくのです。

そこで、神はヨブを元の境遇に戻して二倍の財産を与え、友人たちの
「天罰だ」という主張をはっきり否定し、彼らには訓戒が下されます。

不条理な苦しみの果て、ヨブは、初めて神との真実の出会いに与りました。
不幸の中で幸福を体験できるというのは、一見矛盾しているようですが、キリスト教にはこのような逆説的な表現がたくさんあります。



ヨブ記』には、人間の苦悩に対する解決方法が、最後まで示されていません。

これは単なる問題解決のための問答集ではなく、苦しみの意義についての、深いメッセージがこめられているのです。

「あなたを仰ぎ見ます」とは、ただ何となく眺めるのではなく、心の目で深く観ることを指します。

知識や物欲、愛憎などにとらわれず、あるがままの裸の自分で神と向き合う瞬間を持てたとき、私たちの価値観はがらりと変わります。


そのとき初めて、苦しみの真の意義を悟ることができるのかもしれません。


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