ちょっと注意されただけでカッとなり、642

イメージ 1



参照引用


三浦綾子366のことば  森下辰衛



どんなに裕福な人でも、どんなに頭のよい人でも、どんなに幸せな人でも必ず死ぬ。その死は、人間にとって、それこそ、最後の「義しい務」なのだ。
八十になり九十になって、この世に充分功績を残したからといって「もう何もすることもない」という人はいない。
もう一つ「死ぬ」という、栄光ある仕事が待っている。                                      (北国日記)


婚約式1959年
わたしたちが本当に愛する人にめぐり会うのは、たいていは人生の初めではない。自分がおとなになり、自分の生き方が定まった時、その生き方にふさわしい相手が、ちゃんと現れてくるものだ。
                         (あさっての風)


無関心ということは、何と恐ろしいことだろう。つい、目と鼻の先の出来事であっても、関心を持たぬ限り、それは遠い世界の出来事である。この無関心はわたしの持つ大きな罪悪の一つのように思われる。                                      石ころのうた



「ほうたいを巻いてやれないのなら、他人の傷にふれてはならない」                            『続氷点』


正しい言葉は人の耳に痛い。親にでも、きょうだいにでも、または友人、職場の上司同僚にでも、ちょっと注意されただけでカッとなり、憎くなるのが人間である。            
                    (旧約聖書入門。)


どんな小さな会話だって、やはりその人間の人格に咲いた花のようなものだ。 その言葉のひとつひとつは、その人柄を表しているはずで、だからこそ、何げない会話の中で、わたしたちはお互いのよさや、
新しさや、また、欠点も見いだしていけるわけだ。
                         『愛すること信ずること』


優しい友というのは、金や宝石よりも大切な存在だ。                                      (『北国日記』)


たちまちにして亡びる肉体の生命と、永遠に生き得る霊魂の生命と、どうして取り換えることができましょうか」  
                 (『ちいろば先生物語』)


もし、わたしたちの命が今日しかないとしたら、今日の一日はどんなに大切であることか。 もし、全財産を投げ出して、明日もう一日生き得るなら、わたしたちはすべてを投げ出して明日の一日を買うだろう。
それほど貴重な一日なのに、わたしたちは、来る日も来る日も、漫然と送り迎えているような気がする。
                     (『光あるうちに』)


「謙遜とは、自分の姿をあるがままに見ることのできる人ですよ」                          『忘れてならぬもの』


わたしたちは、しばしば与えるときにこれを惜しみ、与えてはならぬ時に、自分をよく思われたくて与えてしまう。
与えるにも、与えないにも、自己本位にしかあり得ないとは何と情ないことであろう。
                 『生きること思うこと』


「理解してほしい、慰めてほしい」という、人から受ける姿勢から「理解してあげたい、慰めてあげたい」という、与える姿勢に変わる時、悩みのほとんどは解決していることを、わたしはその時から今まで、何十回となく..経験させられてきたのである.
                      『あさっての風』


ご訪問ありがとうございました