ちょっと注意されただけでカッとなり、642
どんなに裕福な人でも、どんなに頭のよい人でも、どんなに幸せな人でも必ず死ぬ。その死は、人間にとって、それこそ、最後の「義しい務」なのだ。
八十になり九十になって、この世に充分功績を残したからといって「もう何もすることもない」という人はいない。
もう一つ「死ぬ」という、栄光ある仕事が待っている。 (北国日記)
婚約式1959年
わたしたちが本当に愛する人にめぐり会うのは、たいていは人生の初めではない。自分がおとなになり、自分の生き方が定まった時、その生き方にふさわしい相手が、ちゃんと現れてくるものだ。
(あさっての風)
無関心ということは、何と恐ろしいことだろう。つい、目と鼻の先の出来事であっても、関心を持たぬ限り、それは遠い世界の出来事である。この無関心はわたしの持つ大きな罪悪の一つのように思われる。 石ころのうた
「ほうたいを巻いてやれないのなら、他人の傷にふれてはならない」 『続氷点』
正しい言葉は人の耳に痛い。親にでも、きょうだいにでも、または友人、職場の上司同僚にでも、ちょっと注意されただけでカッとなり、憎くなるのが人間である。
(旧約聖書入門。)
どんな小さな会話だって、やはりその人間の人格に咲いた花のようなものだ。 その言葉のひとつひとつは、その人柄を表しているはずで、だからこそ、何げない会話の中で、わたしたちはお互いのよさや、
新しさや、また、欠点も見いだしていけるわけだ。
『愛すること信ずること』
優しい友というのは、金や宝石よりも大切な存在だ。 (『北国日記』)
たちまちにして亡びる肉体の生命と、永遠に生き得る霊魂の生命と、どうして取り換えることができましょうか」
(『ちいろば先生物語』)
もし、わたしたちの命が今日しかないとしたら、今日の一日はどんなに大切であることか。 もし、全財産を投げ出して、明日もう一日生き得るなら、わたしたちはすべてを投げ出して明日の一日を買うだろう。
それほど貴重な一日なのに、わたしたちは、来る日も来る日も、漫然と送り迎えているような気がする。
(『光あるうちに』)
「謙遜とは、自分の姿をあるがままに見ることのできる人ですよ」 『忘れてならぬもの』
わたしたちは、しばしば与えるときにこれを惜しみ、与えてはならぬ時に、自分をよく思われたくて与えてしまう。
与えるにも、与えないにも、自己本位にしかあり得ないとは何と情ないことであろう。
『生きること思うこと』
「理解してほしい、慰めてほしい」という、人から受ける姿勢から「理解してあげたい、慰めてあげたい」という、与える姿勢に変わる時、悩みのほとんどは解決していることを、わたしはその時から今まで、何十回となく..経験させられてきたのである.
『あさっての風』
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