ゆるさないということは、643

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参照引用


三浦綾子366のことば  森下辰衛



愛は実に神から来る。わたしたち人間こ真の愛はな
い。だから、神から愛をもらわなければ、人間の持
つべき真の愛は待ち得ないのだ。
                 (『孤独のとなり』)


光世さんのお母さんがとても信仰の篤い人だったんですね。
彼が急性肺炎という大病に冒されて死にそうになったとき、
私が「お母さん、お祈りしてください」と頼んだらお祈りしてくださったのです。 お祈りが終わったとたん、私が「ねえお母さん、光世さんは治るでしょうか」と言ったら、キッとした表情をして「あなたは、それでもクリスチャンですか。今、祈ったばかりで何ですか」としかられました。
                     (三浦綾子対話集)



生きているということは、人を傷つけているということだ、何人といえど、未だかって、人を傷つけることがないと言える人はない。舌で人を刺すか、目でつき刺すように人を見るか、ともかくも、心の中で始終人を裁いている存在なのだ。
その心の、冷え冷えとつめたく、何と冷酷なことであろう。
                             (旧約聖書入門)


単純な人間は、一つの結果から、すぐに「嘘つきめ」とか、「真実のない奴」とか、決めつけてしまうのだが、
想像力に富んだ愛の人は、様々な場合を想定し、簡単には怒らぬということなのだろう。
                    (私の赤い手帖から)


ゆるさないということは、審いているということだ。審いているということは、審きたもう神を押しのけて、自分がその座に立っていることだ。審いているということは、つまりは、「神にはまかせておけない」という神への不信の現れでもある。
人をゆるさない者は、神を信じているとは決していえないのだ。                               『天の梯子』


若い者は潔癖な怒りを知らなければ、いけない
                          (続氷点)


私たちは甘えているのですよね。 自分に会ったら、人は笑顔を見せるものだと、決めてかかっているのですよね。
人にはそれぞれの生活があって、ある人は自分の病気に心を捉われている時もあります。ある人は家業がうまくいかず、そのことで心を睹くし
ていることもあります。ある人は離婚問題が持ち上がり、大声で叫び出したいような、辛い思いの中にいることもあります。
それなのに私たちは、そんな状態の人々にも、笑顔を見せろと要求しているのです。優しい言葉をかけて欲しいと、期待しているのです。                          風はいずこより


「誰のためにも涙も汗も流さない人間が、いくら平和を叫んでも、ぼくは信用しない」
                             帰りこぬ風


「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください」という、謙遜な祈りを、私たちもまたキリストにならって祈るべきではないだろうか。
こうした思いを持って、私たちが日々を生きるとき、自分の思いのままに生きる時とは、全くちがった自己のあり方が生まれ、
事業のあり方が生まれるのではないだろうか
                        泉への招待


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