自分は本ものか、にせものか、648
参照引用
三浦綾子366のことば 森下辰衛
苦楽生死、均しく感謝。
『塩狩峠』
く神はわたしたちの求めるものよりも、更にすばら
しいものを用意しておられる時は、祈りを聞いてく
ださらないこともある
榎本保郎牧師の言葉。
なる
ほどとうなる。
わたしたちは病気よりも健康のほう
がよいと思う。
貧しさよりも金持ちになることがよ
いと思う。
だが、神は、人間には病気の時があって
よいと思い、
貧しい時があってよいと見られるのか
も知れない。
そしてそのような神の計らいが、わた
したち人間にとって晨もすばらしいことになるのか
も知れない。
北国日記
挨拶がきっかけで出会った二人の開に何が展開するか、わからないのだ。よくも、悪くも、かかわりが生ずるということなのだ。
挨拶の目的は、つまり人間は人間とかかわり合って生きて行くという姿勢にさせることにあるのであろう。
(『生きること思うこと』)
現在の一点に過去も未来も生きている。
『北国日記』
十三年という長い月日を病むことは、たしかにひとつの不幸であろう。
しかし、それさえもわたしの成長に役立っていることを思うと、学問や、趣味のみならず、わたしたちの日常のできごとのすべてが、神の与え給う豊かな糧のような気がする。むろん、それは、成長しようと、ねがう者にとってである。
(『あさっての風』)
言葉は人格の所産である。
私の赤い手帖から
自分は本ものか、にせものか、きびしい目でみつめるならば、自分こそ本ものだと言える人間は少ないのではないか。
(「旭川だより」)
今までに地球上にどれだけの数の人間が誕生したのか、誰も数えることができない。が、一人として同じ人間が誕生していない。
生まれた者すべてが、地球始まって以来、全く新しい存在なのだ。
自分と同じ人間が一人もいないということ、そのことだけでも真面目に受けとめて考える時、私たちは身の引きしまる思いになるのではないか。
(小さな一歩から)
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