艱難は、それにうちひしがれるため 651
参照引用
三浦綾子366のことば 森下辰衛
愛とは、語ることではなく、実践することだ……。 (『天の梯子』)
「艱難は、それにうちひしがれるためにあるのではないのです。
それは、のりこえるためにあるのです。
もし のりこえることができなければ、身を屈めて、その艱難をくくりぬけて下さい。
小さく小さくなるのです。最も小さいもの、それはヴィールスである。
これは、わたしが苦しみにあった時、わたしに言い聞かす言葉なのである。
(太陽はいつも雲の上に)
.「金を持たせると、その人がわかる」という言葉と、「金を失うと、その人がわかる」という言葉がある。
いずれにしても、人間が金にふりまわされやすい存在であることを物語っている。
『聖書に見る人間の罪』
愛はもったいないということは言わない、愛する者は。
‥‥‥そのひとのために費やす時間をもったいないと感じない‥…。 (三浦綾子対話集)
人の言葉というものは、私たちが思っているよりも、もっと強い力を持っており、もっと神秘的なものだと私は思う。
(私の赤い手帖から)
対話が成立しないのは、必ず自分の立場に固執し耳をふさぎ、頑迷になっている人間たちに多いに違いない。つまりおのが立場にしがみついて、動きの取れなくなった不自由な人間が対話を失うのだ。
(『忘れてならぬもの』)
イエスが、最後に、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた。
この言葉を初めて読んだ時、なんとしても私にはわからなかった。
正直な話、失望さえ感じた。
これが神の子イエスの最後の言葉か。
土壇場になって、なんという弱音を吐かれたのであろう。私は情けないこ
とだと思った。
だが私はその時、まだイエスの死が自分とはなんの関わりもないものに思っていたのであった。
(『新約聖書入門』)
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