尺度を二つ持っている……657

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参照引用

三浦綾子366のことば   森下辰衛



わたしたちは常に、尺度を二つ持っている……。
「人のすることは大変悪い」「自分のすることは、そう悪くない」……つまり、「自己中心」なのだ。
「自己中心」の尺度で、ものごとをはかる限り、自分は悪くはないのである。……
それどころか、「自分のすることはすべてよい」というものさしを持ってい
る人さえいる。 
                         (『光あるうちに』)



わたしはこの世に、自分の意志よりも更に強固な、大きな意志のあることを感ぜずにはいられなかった。                  
                      (『道ありき』)


わたしにとって読書とは、自分の生きる姿勢を正してくれるものでなければならない。」
わたしの心を激しくゆさぶり、「お前は、どのように生きているのか」 と、問いただしてくれるものでなければならない。                                        (『遺うれた言葉』)



私が風邪をひいた時、祈っていてくれた近所の幼子が、なおった私の姿を見て、大喜びで喜んでくれたことを、私はいつも思い出す。
人のために祈ることは、喜びも悲しみも、共にすることだと言えるであ
ろう。 
                         『天の梯子』



「金の多い少ないは人間の偉大さには関係はねえ。
金持ちにも貧乏人にも、馬鹿もいれば立派なのもいる。
問題は、目に見えるものが問題じゃねえ。
目に見えないものが大切じゃ」    
                   (『泥流地帯』)



「涙と汗は人のために流せ」わたしが、旭川市大成小学校の何年生の頃であったろう。
高等科のクラスに、この言葉がいつも掲示されてあった。
わたしはその教室の前を通る度、この言葉に共感を覚えた。
                 (『太陽はいつも雲の上に』)




自分の悩みから世間態を除くがよい。
真に悩むべきものは何かが、はっきりし、悩みは確かに半減はおろか、皆無になることさえある。
                     (『大陽はいつも雲の上に』)



愛とは、なすべきことをなす意志なのです。
情に流されるのが愛だとまちがわないでほしいのです。
                 (『小さな郵便車』)



「オサナゴニナルノデス。オサナゴハ、毋ノフトコロニ、ナンノ不安モ、
オソレモナク眠ルデハアリマセンカ。
神ノフトコロニ、安心シテネムルノデス。
神ハ慈愛ノ方デス。……神ハ、異国モフルサトニ変エテクレマス。
ワタシハフルサトニイマス。 ヨロコビマス。 ウレシイデス。
神ハ慈愛ブカイカラデス」
                    (『細川ガラシャ夫人』)



「失敗は人間になくちゃあならねえものかもしれねえと、思っている。
一度も失恋もしたこともなければ、金のやり繰りに苦労したこともない
人間なんてえのは、どんなものかねえ。
人の涙も、悲しみも、思いやることができねえんじゃねえか」
                         (『愛の鬼才』)



「人はいつ、どこで、自分の生活を断ちきられても、
その断面は美しいものでありたい」
                      (『ひつじが丘、』)


「愛は人間を幸せにする意志とも言われています。
しかし私たち人間は、本来極めて小さな愛しか持っていない者であると言えないでしょうか。
では、先程の(結婚〕誓約は何のためでしょう。
人間はたやすくは愛し得ない者であるとの自覚を促すものである、と言えるのであります」 
                          (『銃口』)


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