自己中心 659
……「自分を大事にすること」と「自己中心」とはちがう。
この自己中心を押し進めて行くと、「人はどうなってもかまわない」ということになり、自分が憲法になり、自分にとって都合のよいことが正し
いことになり、都合の悪いことが正しくないことになる。 (『光あるうちに』)
人間には、なくてはならない存在とされることが、一番うれしいのです。 (『藍色の便箋』)
人間一人が、死ぬか生きるかの目に遭っていても、傍の者からは、この程度にしか受け止められぬこともある、
ということをその時身をもって知りましたなあ。
目に見える形のことさえそうであれば、まして、目に見えぬ心の悩みなど、人は気づかぬものでしょうな。
(『夕あり朝あり』)
「誠の心が言葉ににじみ出て、顔にあらわれて人に通ずるんだね」 (『塩狩峠』)
「自分の非を素直に認めたり、まぬけさを客観的に笑えたら、これは立派だよ。
人間、立派ということは、こういうことじゃないかな。
ここには劣等感も傲慢もない。あるがままの自分を見つめる澄んだ心
だけがある。
寛い心と言ってもいいね」
(「足跡の消えた女」)
今の幸せを、しっかと全身で感じ受けとめられぬ人間には、いつまでたっても幸福はない。
幸福はどこかにあるのではなく、自分の心の中にあることが多いのだ。 (『太陽はいつも雲の上に』)
「わたしは夢がかなうかどうかというよりも、夢を待ちつつ生きることが尊いと思うわ」
(『積木の箱』)
「これが時代というものだよ」誰かがそう言いました。
それでは時代とはいったい何なのか。
今まで正しいとされて来たことが間違ったことになるのが時代だと言うのか。
何時の時代でも悪いことを「時代」や「社会」のせいにしてしまってことたれりとする風潮があるが、本当にそれでいいのか。
(『さまざまな愛のかたち』)
大体将棋というものは、大駒ばかり大事にしていては駄目で、お互いの駒の欠陥をカバーし合うこと、特に「歩」という弱い駒を大事にすることが肝要なのだそうだが、
つくづく人間社会のあるべき姿を思わせられるものではないか。 (『孤独のとなり』)
「何度も手をかけることだ。そこに愛情が生まれるのだよ。
ほうっておいてはいけない。
人でも物でも、ほうっておいては、持っていた愛情も消えてしまう」
(『続氷点』)
確固とした自己を持った人間は、そうみだりに、体裁が悪いだの、恥ずかしいだのと、タト面的なものにこだわらぬようになるはずだ。
人間として、真に恥ずべきことを知っているのはこういう人たちなので
ある。
(『あさっての風』)
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