「立ち入り禁止」と書いてあれば、立ち入りたくなる。660
雑感
人は
正義を考え
悪いことをしている。・・・
あ・・・・・
・・・・・・
悪とは楽しいものだ。「立ち入り禁止」と書いてあれば、立ち入りたくなる。恋してならないと禁じられていればこそ、人の夫や妻を盗みたくなる。
それは、禁断の木の果を食べたアダムとイブの昔から持っている、
人間の傾向性だ。
(『天の梯子』)
「同じ生きるなら、こうしか生きられないでなくて、こうも生きられる、という気持のゆとりが欲しいものよね。
その時、人生が深くなるんじゃないかしら」 (『明日のあなたへ』)
一日に一度も笑わぬ日を三百六十五日つづけているとしたら、いったい人間はどんなことになるであろう。
現代の生活で最も必要なものは、あるいはこの笑いではないかとさえ思うことがある。
夫婦、親子、きょうだいの問に、明るい笑いのあるところ、そこは必ず平和な世界と言えることだろう。
(『命ある限り』)
「愛するとは、ゆるすことでもあるんだよ。一度や二度ゆるすことではないよ。 ゆるしつづけることだ」
(『ひつじが丘』)
わたしたち人間は、それぞれに、どんでん返し的意外性を持っている。
だが、そのみにくさ、弱さ、すべてを含めてご存じの神に、全くよりすがるということが、何よりも大事なのだ。
人はどんでん返しに驚くが、われらを造られた神は、初めからお見通し
なのである。
(『生きること思うこと』)
歩いていて転ぶ時と一生懸命走っていて転ぶ時と、いずれが痛いか。
いずれの傷が大きいか。
傷は一生懸命に、真実に生きたことのしるしだ。
(『太陽はいつも雲の上に』)
なぜ赤いナナカマドも/緑濃い針葉樹も/空に向かって/立っているのですか
/人間もまた/空に向かって/立っているべきなのですね/
でもなぜか/うつ向いて/天を見上げようとは/しないのです
(『祈りの風景』)
「兄弟とは、指定席に隣り合わせた乗客に似ている」
……その席にすわったが最後、どちらかが降りるまでは、いやでも応でも並んでいなければならない。
それは、自分の意志で選んだ友人とか恋人とか夫婦などとは、全く別の関係なのだ。
(『裁きの家』)
人生順調な時があり、不遇な時がある。不幸に見える時があり、幸福に見える時がある。
何れにしても絶望する必要もなければ有頂天になる必要もない。
いつの日も光は私たちのすぐ隣りにあると信じたい。 (『小さな一歩から』)
わたしたちは与えられている時間も、才能も、財も、私物化してしまってはならない。
真にそれらを生かすためには私だけのものにしてはならないのだ。
(『北国日記』)
「天国に人が入るためには、狭い門から入らねばならぬと伺いました。
狭い門から入るためには、すべての持ち物を捨てねばなりませぬ。
身分という持ち物も、財産という持ち物も、傲慢という持ち物も、
美形や学問という持ち物など、持っては入れぬ狭い門をくぐらねば、
天国には入れぬと承りました。
それらの荷は、天国では何の役にも立ちませぬ。
いいえ、そればかりか、かえって邪魔になる荷物だそうでござります」 (『千利休とその妻たち』)
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